EU MiCA規制でステーブルコイン事業者に二重コンプライアンスの壁——PSD2との併用義務化
2026年3月、EU(欧州連合)の暗号資産包括規制「MiCA(Markets in Crypto-Assets Regulation)」の完全施行が進む中、ステーブルコイン事業者にとって深刻な問題が浮上している。EMT(電子マネートークン)のカストディや送金サービスを提供する事業者は、MiCAの認可に加えてPSD2(第2次決済サービス指令)の決済ライセンスも取得しなければならない可能性が高まっているのだ。
コンプライアンスコストは単純に2倍に膨れ上がると試算されており、推定で**€350,000〜€900,000(約5,600万〜1.4億円)**の負担が事業者にのしかかる。資金力に乏しいスタートアップにとっては事業継続の可否を左右する水準であり、EU暗号資産市場の競争環境が根本から変わりかねない。
MiCAとは何か——EU暗号資産規制の全体像
MiCA(Markets in Crypto-Assets Regulation)は、EUが2023年6月に正式採択した世界初の包括的な暗号資産規制フレームワークだ。暗号資産を「ユーティリティトークン」「アセットリファレンストークン(ART)」「電子マネートークン(EMT)」の3つに分類し、それぞれに異なる規制要件を設けている。
MiCAの最大の特徴は、これまで各加盟国がバラバラに対応していた暗号資産規制をEU全域で統一した点にある。27カ国で単一のライセンスが通用する「パスポーティング」制度により、一国で認可を取得すればEU全域でサービスを展開できる。
MiCAの適用スケジュール
MiCAは段階的に施行されてきた。
- 2023年6月: MiCA法案がEU官報に掲載、18ヶ月の移行期間開始
- 2024年6月: ステーブルコイン(ART・EMT)関連規定が先行適用
- 2024年12月: CASP(暗号資産サービスプロバイダー)認可制度を含む全規定が適用
- 2025年〜2026年: 各国規制当局による詳細ガイダンスの策定と執行強化
問題は、この全面適用後の実務運用において、EMTサービスに関するMiCAとPSD2の規制範囲が重複することが明確になってきたことだ。
EMT(電子マネートークン)とは——ステーブルコインの法的分類
EMTは、MiCA上で「単一の法定通貨の価値を参照することで安定した価値を維持するよう設計された暗号資産」と定義されている。具体的には、**USDC(米ドル連動)やEURC(ユーロ連動)**のような、1つの法定通貨にペッグされたステーブルコインがこれに該当する。
一方、複数の資産(法定通貨、コモディティ、暗号資産の組み合わせ)を参照するステーブルコインは「ART(アセットリファレンストークン)」に分類される。EMTとARTでは規制要件が異なり、EMTの方がより厳格な規制を受ける。
EMT発行体の要件
MiCAの下で、EMTを発行するには以下の要件を満たす必要がある。
- 電子マネー機関(EMI)または信用機関(銀行)としての認可を保持
- ホワイトペーパーの作成・公表・当局への届出
- 準備資産の100%保全: EMT保有者からの償還請求に常時対応できるだけの準備金を維持
- 資本金要件: 最低€350,000または発行残高の2%のいずれか高い方
- ガバナンス・リスク管理体制の整備
二重コンプライアンス問題の核心——なぜPSD2も必要なのか
ここからが本題だ。EMTの発行だけであれば、MiCAの枠組み内で対応可能だ。しかし問題は、EMTのカストディ(保管)や送金(トランスファー)サービスを提供する場合に発生する。
以下の図は、EMT事業者に求められる二重ライセンス構造を示しています。
規制の重複が生じるメカニズム
MiCAは暗号資産サービスプロバイダー(CASP)に対して認可を義務づけているが、EMTは法的に「電子マネー」の性質を持つため、PSD2の決済サービス規制の適用対象にもなる。具体的には以下のケースで二重規制が発生する。
| サービス内容 | MiCA上の分類 | PSD2との関係 |
|---|---|---|
| EMTの発行・償還 | EMT発行体(EMI認可必要) | EMI認可で対応済み |
| EMTのカストディ(保管) | CASPサービス | PSD2の顧客資金保護規定が適用 |
| EMTの送金・決済 | CASPサービス | PSD2の決済サービス認可が必要 |
| EMTの交換(他の暗号資産との交換) | CASPサービス | 原則PSD2対象外 |
| EMTによる加盟店決済 | 決済手段としての利用 | PSD2の決済機関(PI)認可が必要 |
つまり、ステーブルコインの発行から送金・決済まで一気通貫で提供しようとする事業者は、MiCAのCASP認可とPSD2の決済機関認可の両方を取得・維持する必要が生じるのだ。
コンプライアンスコストの内訳
二重ライセンスが必要となった場合のコスト構造は以下の通りだ。
| コスト項目 | MiCA(CASP認可) | PSD2(PI/EMI認可) |
|---|---|---|
| 法律事務所・コンサルティング費用 | €80,000〜€200,000 | €60,000〜€150,000 |
| 認可申請費用(当局手数料) | €10,000〜€30,000 | €5,000〜€20,000 |
| 内部体制整備(人件費含む) | €80,000〜€200,000 | €60,000〜€150,000 |
| 継続的コンプライアンス(年間) | €30,000〜€70,000 | €25,000〜€80,000 |
| 合計(初年度) | €200,000〜€500,000 | €150,000〜€400,000 |
合計すると、初年度だけで**€350,000〜€900,000(約5,600万〜1.4億円)**の負担となる。これに加えて、最低資本金要件やリザーブ資産の保全コストも上乗せされるため、実質的な資金負担はさらに大きい。
EU各国規制当局の対応——足並みは揃っていない
二重コンプライアンス問題に対するEU各国の規制当局の対応は、現時点では統一されていない。
**フランス(AMF)**は比較的柔軟なアプローチを取り、MiCA認可を持つCASPに対してPSD2の簡易認可プロセスを検討しているとされる。一方、**ドイツ(BaFin)**は厳格な姿勢を崩さず、両方のライセンスの完全な取得を求める方向だ。
**アイルランド(CBI)**やオランダ(AFM)は、多くの暗号資産企業が拠点を置く国として、業界からの圧力を受けながらも慎重な立場を取っている。
欧州証券市場監督局(ESMA)と欧州銀行監督局(EBA)は、この問題について共同ガイダンスを策定中だが、公表時期は2026年後半以降になる見通しだ。つまり、当面は各国の解釈の違いによって、同じEU内でも事業者の負担が異なるという不均衡な状況が続くことになる。
市場への影響——スタートアップ淘汰と大手寡占の加速
以下の図は、MiCA規制によるEU暗号資産市場への影響タイムラインを示しています。
スタートアップの撤退・移転
欧州暗号資産業界団体の分析によれば、EU拠点の暗号資産スタートアップの20〜30%が撤退または域外移転を検討しているとされる。移転先として人気なのは以下の地域だ。
- スイス: FINMA(スイス金融市場監督機構)の下で暗号資産に比較的友好的な規制環境
- UAE(ドバイ): VARA(仮想資産規制庁)による迅速なライセンス発行
- シンガポール: MAS(シンガポール金融管理局)の明確な規制フレームワーク
- 英国: FCA(金融行動監視機構)による独自の暗号資産規制を策定中
大手取引所の優位性拡大
二重コンプライアンスコストを吸収できるのは、資金力のある大手プレーヤーに限られる。Binance、Kraken、Coinbase、Bitstampなど、すでに複数国でライセンスを取得している事業者は、むしろ規制を参入障壁として活用できる立場にある。
業界アナリストの予測では、EU域内のステーブルコイン関連サービスの市場シェアが上位5社で80%を超える寡占状態に向かう可能性がある。
CircleとTetherの明暗
ステーブルコイン最大手の**Tether(USDT)**は、MiCA対応が遅れており、すでに一部のEU取引所から上場廃止されている。準備資産の透明性や監査体制がMiCAの要件を満たしていないとの指摘が根強い。
一方、**Circle(USDC/EURC)**はMiCA対応を積極的に進めており、フランスで電子マネー機関(EMI)のライセンスを取得済みだ。二重コンプライアンス問題においても、すでにPSD2のEMI認可を保持しているため、追加コストは比較的限定的とみられている。
| 項目 | Circle(USDC/EURC) | Tether(USDT) |
|---|---|---|
| MiCA対応状況 | EMIライセンス取得済み | 対応遅延、一部取引所で上場廃止 |
| PSD2対応 | EMI認可で対応済み | 未対応 |
| EU市場での地位 | シェア拡大中 | シェア縮小 |
| 準備資産の透明性 | 定期監査レポート公表 | 第三者監査に課題 |
| 二重コンプライアンスの影響 | 限定的 | 事実上EU市場から排除 |
日本への影響——資金決済法改正との接点
日本においても、この問題は対岸の火事ではない。金融庁は2023年以降、ステーブルコインに関する規制整備を進めており、2023年6月に施行された改正資金決済法では、法定通貨建てステーブルコインの発行を銀行・資金移動業者・信託会社に限定している。
日本版「二重規制」の可能性
日本の現行規制では、ステーブルコインの発行と決済サービスが一体的に規制されているため、EUのような明確な「二重ライセンス」問題は生じにくい。しかし、以下の点で注意が必要だ。
- 暗号資産交換業登録との兼ね合い: ステーブルコインの売買仲介を行う場合、暗号資産交換業の登録も必要になる可能性がある
- 為替取引規制: 海外ステーブルコインの国内流通は、為替取引規制に抵触する可能性がある
- マネーロンダリング対策: トラベルルール(暗号資産移転時の送金人・受取人情報の通知義務)への対応
日本企業がEU市場に参入する場合
日本の暗号資産事業者がEU市場でEMT関連サービスを展開しようとする場合、MiCAとPSD2の両方のライセンスが必要になる可能性が高い。すでにSBI VCトレードやbitFlyerなどがEU展開を検討しているが、二重コンプライアンスコストは日本基準の数倍に達するため、参入戦略の抜本的な見直しが求められるだろう。
業界の反応と今後の展望
業界団体の声
欧州暗号資産関連の業界団体は、二重コンプライアンス問題について強く反発している。
- European Crypto Initiative(EUCI): 「MiCA単独で十分な消費者保護が実現できるはず。PSD2の追加適用はイノベーションを殺す」
- Digital Euro Association(DEA): 「規制の重複は意図的なものではなく、法体系の設計上の欠陥。ESMAとEBAは早急にガイダンスを出すべき」
- CryptoUK: 「英国がEUとは異なる独自路線を取ることで、ロンドンが欧州の暗号資産ハブとしての地位を強化できる」
想定されるシナリオ
今後の展開としては、3つのシナリオが考えられる。
- ESMAとEBAが統一ガイダンスを策定し、PSD2要件の一部をMiCA認可で代替可能とする「ワンストップ・ライセンス」的な運用が実現する(最善シナリオ)
- 各国の規制当局ごとに解釈が異なる状態が続き、ライセンスアービトラージ(規制の緩い国を選んで拠点を構える動き)が加速する(現状維持シナリオ)
- 欧州議会がMiCAの改正に動き、EMTサービスに関するPSD2との重複を法的に解消する(抜本的解決シナリオだが、実現は2028年以降の見通し)
まとめ——事業者が今すぐ取るべきアクション
EU MiCA規制下でのEMT事業者に対する二重コンプライアンス要求は、ステーブルコイン市場の再編を加速させる大きな転換点だ。事業者が今すぐ取るべきアクションは以下の通りである。
- 自社サービスの規制マッピングを実施: EMTの発行・カストディ・送金のうち、どのサービスがMiCAとPSD2の両方に該当するかを法律事務所と精査する
- 拠点戦略の再検討: EU域内でも規制当局のスタンスに差があるため、フランス(AMF)やアイルランド(CBI)など比較的柔軟な国での認可取得を検討する
- ESMAとEBAの共同ガイダンスの動向をウォッチ: 2026年後半に公表される予定のガイダンスにより、二重コンプライアンスの実務的な緩和措置が示される可能性がある
- コスト試算と資金計画の見直し: 初年度€350,000〜€900,000のコンプライアンスコストを織り込んだ事業計画を策定する
- パートナーシップの検討: すでに両方のライセンスを持つ事業者(Circle等)との提携により、自社でのライセンス取得を回避するモデルも視野に入れる
MiCAは「暗号資産のルールブック」として画期的な規制だが、PSD2との重複問題は設計上の盲点だったと言わざるを得ない。EU当局がどのスピードで解決策を打ち出すかが、今後の欧州暗号資産市場の行方を左右するだろう。