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欧州委員会が「EU Inc」を提案——27カ国共通の法人格でスタートアップの域内展開を加速

欧州委員会は2026年3月、EU全域で有効な新しい法人格「EU Inc」の創設を提案した。現在、EU加盟27カ国にはそれぞれ異なる会社法が存在し、スタートアップが国境を越えて事業を展開するには各国で個別に法人を設立する必要がある。ドイツならGmbH、フランスならSAS、オランダならBV——それぞれ異なる最低資本金、公証人要件、取締役の居住義務がある。EU Incはこの27通りの手続きをたった1回のオンライン登記で置き換え、設立から数日で全加盟国での事業展開を可能にする枠組みだ。

この提案の背景には、欧州スタートアップの米国・英国への流出という深刻な問題がある。Atomico社の「State of European Tech 2025」レポートによると、シリーズB以降の資金調達を行った欧州スタートアップのうち約30%が本社をデラウェア州に移転しており、その最大の理由が「クロスボーダーでのスケーリングの法的複雑さ」だった。

EU Incとは何か

従来の欧州スタートアップが直面する問題

EUは人口4億5,000万人、GDP約16兆ドルの巨大市場だが、スタートアップにとっては法的に27の別々の市場として機能している。例えば、ベルリンで創業したフィンテックスタートアップがパリとアムステルダムに展開するだけで、以下のプロセスが必要になる。

  1. フランスでSASを設立: 公証人認証、フランス語での定款作成、Greffe(商業裁判所書記局)への登録。所要期間は平均4〜6週間、費用は€3,000〜€8,000。
  2. オランダでBVを設立: 現地の公証人との面談(オンライン可だが要予約)、KVK(商工会議所)への登録。所要期間は2〜4週間、費用は€2,000〜€5,000。
  3. 各国の労働法に準拠したストックオプション契約の策定: ドイツ、フランス、オランダの税制はそれぞれ異なるため、3カ国分の弁護士費用が発生。
  4. 各国の銀行口座開設: KYC(本人確認)プロセスが国ごとに異なり、非居住者の口座開設に数ヶ月かかるケースも。

わずか3カ国に展開するだけで**€20,000〜€50,000のコスト3〜6ヶ月の時間**が消費される。シードラウンドで€1〜2Mを調達したスタートアップにとって、この法務コストは致命的な負担だ。

EU Incの仕組み

EU Incは、既存の各国会社法を置き換えるものではなく、スタートアップがオプションとして選択できる新しい法人形態だ。主な特徴は以下の通り。

特徴内容
単一登記1つのEU加盟国で登記すれば、全27カ国で法人格が有効
オンライン設立完全デジタルの設立手続き。公証人訪問は不要
最低資本金象徴的な€1(ドイツGmbHの€25,000と比較)
統一ストックオプション全EU従業員に同一条件でエクイティを付与可能
簡素化された資金調達米国のSAFE(Simple Agreement for Future Equity)に近い仕組みを採用
クロスボーダー本社移転清算・再設立なしに、本社をEU域内で移転可能
デジタルガバナンス株主総会のオンライン開催、電子署名による決議が標準

重要なのは、EU Incが**「28番目の法制度」**として既存の国内法と並存する点だ。スタートアップはドイツのGmbHやフランスのSASを選ぶことも、EU Incを選ぶこともできる。既存の中小企業や大企業が強制的に移行させられることはない。

以下の図は、従来の法人設立プロセスとEU Incの違いを視覚的に示しています。左側が現状の27通りの手続き、右側がEU Incによる一本化されたプロセスです。

EU加盟27カ国のスタートアップ法人設立における現状とEU Incの比較図。従来は各国で別々の法人登記が必要だったのに対し、EU Incでは1回の手続きで全EU加盟国で事業展開が可能になる

従来のモデルでは各国ごとに法人登記、弁護士、公証人の手配が必要で、平均6〜12ヶ月のリードタイムとの€50,000〜€200,000のコストが発生していた。EU Incでは1回のオンライン手続きで完了し、コストは€1,000以下に抑えられる見通しだ。

なぜ今、EU Incなのか

欧州スタートアップの「エクソダス」問題

EU Incの提案は、欧州のスタートアップエコシステムが直面する構造的な問題への回答だ。数字が危機の深刻さを物語っている。

  • VC資金調達額: 2025年の欧州VC投資額は約€45Bで、米国の€180Bの4分の1に留まる(PitchBook調べ)
  • ユニコーン数: 欧州発のユニコーン(評価額$1B超)は約350社。米国は700社以上
  • 本社移転: シリーズB以降の欧州スタートアップの30%がデラウェア州に法人を設立(Atomico調べ)
  • 人材流出: 欧州のトップAI研究者の約40%が米国の企業・大学に在籍(OECD調べ)

特にストックオプションの問題は深刻だ。米国のスタートアップは全世界の従業員に対して統一的なISO(Incentive Stock Option)やNSO(Non-Qualified Stock Option)を付与できるが、欧州のスタートアップは各国の税制に合わせて個別の契約を結ぶ必要がある。ドイツでは行使時課税、フランスではBSPCE(創業者株式引受権)という独自制度、イタリアでは一定額まで非課税——この複雑さが、欧州スタートアップが優秀な人材を惹きつける力を弱めている。

マリオ・ドラギ報告書の提言

EU Incの構想は、前ECB総裁マリオ・ドラギが2024年9月に発表した「欧州の競争力に関する報告書」に端を発する。ドラギは報告書の中で、EUの生産性が過去20年間で米国に大きく引き離されたことを指摘し、その主因の一つとして**「単一市場の断片化」**を挙げた。

ドラギは具体的に以下を提言した。

  • スタートアップ向けのEU全域で有効な法人格の創設
  • 統一的なストックオプション税制の導入
  • VCファンドのクロスボーダー運用を容易にする規制改革
  • デジタル企業の域内移転手続きの簡素化

今回の欧州委員会のEU Inc提案は、このドラギ報告書の提言をほぼそのまま政策パッケージに落とし込んだものと言える。

米国・英国との比較

EU Incが目指すのは、米国のデラウェア州C-Corpに匹敵するシンプルさと予測可能性だ。

以下の図は、EU(現状)、EU Inc(提案)、米国Delaware C-Corpの3つの法人設立環境を比較しています。

EU・EU Inc・米国Delaware C-Corpのスタートアップ設立環境比較表。設立期間、最低資本金、域内展開、ストックオプション、VC資金調達、マルチ拠点設立コストの6項目で比較

この比較から明らかなように、現状のEUはほぼすべての項目で米国に劣っている。EU Incはこのギャップを大幅に縮小し、特に「域内展開」と「コスト」の面ではデラウェアC-Corpと同等以上の競争力を持つ設計になっている。

デラウェア州が選ばれる理由

米国のスタートアップの約60%がデラウェア州で法人を設立する理由は明確だ。

  1. 判例法の蓄積: 200年以上の会社法判例があり、紛争時の結果が予測しやすい
  2. 専門裁判所: Court of Chancery(衡平法裁判所)が商事紛争を迅速に処理
  3. 投資家の慣れ: VCやPEファンドがデラウェア法に精通しており、デューデリジェンスが効率的
  4. 柔軟な定款設計: 種類株式、優先株、転換社債の設計自由度が高い

EU Incは、このデラウェアモデルのエッセンスを欧州に持ち込もうとしている。特に「投資家の慣れ」は時間がかかる要素だが、EU Incが標準化されたテンプレートを提供することで、VCのデューデリジェンスコストを大幅に削減できる可能性がある。

実現への課題

加盟国の抵抗

EU Incの最大の障壁は、加盟国政府の抵抗だ。会社法は各国の主権に深く関わる領域であり、以下の懸念が予想される。

  • 税収の流出: 法人税率の低い国(アイルランド12.5%、ハンガリー9%)にEU Inc企業が集中するリスク
  • 規制の底辺への競争: 登録要件が最も緩い国に企業が殺到する「レース・トゥ・ザ・ボトム」
  • 既存法制度との整合性: 各国の労働法、消費者保護法との調整が複雑
  • 司法管轄権: EU Inc企業の紛争をどの国の裁判所が管轄するかの問題

欧州委員会はこれらの懸念に対し、EU Incの適用をスタートアップ(設立5年以内、従業員250人以下、売上€50M以下を想定)に限定する方針を示している。大企業や既存中小企業は対象外とすることで、各国の会社法体系への影響を最小限に抑える狙いだ。

税制の統一はスコープ外

注意すべきは、EU Incが法人税の統一を含んでいない点だ。法人格は統一されても、税率は各国の管轄のままとなる。これはEU内での政治的合意を得るための現実的な妥協だが、同時にEU Incの魅力を限定的にする要因でもある。

ただし、欧州委員会は別途進行中の**BEFIT(Business in Europe: Framework for Income Taxation)**イニシアチブで、EU全体の法人税基盤の統一を目指しており、将来的にはEU IncとBEFITが組み合わさることで、より完全な「単一市場」が実現する可能性がある。

欧州スタートアップエコシステムへのインパクト

恩恵を受けるセクター

EU Incの恩恵が最も大きいのは、以下のセクターだ。

セクター理由代表的な企業例
SaaS / B2B言語障壁が比較的低く、複数国展開が成長のカギPersonio(独)、Spendesk(仏)
フィンテック各国の金融規制への対応が最大の参入障壁N26(独)、Qonto(仏)
ディープテック / AI研究人材が欧州各地に分散、クロスボーダー採用が不可欠Mistral AI(仏)、DeepL(独)
クリーンテックEU全域での事業展開がスケールに直結Northvolt(瑞)、H2 Green Steel(瑞)

VCへの影響

EU Incは欧州VCの投資行動にも大きな変化をもたらす可能性がある。現在、欧州のVCファンドは投資先のクロスボーダー展開に伴う法務コストをリスク要因として織り込んでおり、これが欧州内での投資額を抑制する一因になっている。

EU Incによりこの法務コストが大幅に削減されれば、VCはより早い段階でクロスボーダー展開を推奨できるようになり、欧州スタートアップの成長速度が加速する可能性がある。European Investment Fund(EIF)のデータによると、EU域内のクロスボーダーVC投資は全体の**約25%**に留まっており、米国(州間投資が90%以上)と比較して大幅に低い。

日本への示唆

日本のスタートアップ法制度との比較

日本のスタートアップにとってEU Incの動向は、直接的な影響は限定的だが、制度設計の観点から重要な示唆を含んでいる。

日本では2022年の「スタートアップ育成5か年計画」以降、ストックオプション税制の改正(信託型SOの課税繰延など)、株式会社の設立手続きのデジタル化(e-Govオンライン申請)、特定創業支援等事業による登録免許税の減免など、着実な制度改善が進んでいる。

しかし、以下の点でEU Incは日本にとっても参考になる。

  • アジア版EU Inc: ASEAN経済共同体(AEC)やRCEP(地域的な包括的経済連携協定)の枠組みで、域内での法人設立を簡素化する議論に発展する可能性
  • ストックオプション統一: 日本企業が欧州に進出する際、EU Inc企業として現地法人を設立すれば、27カ国で統一的なエクイティ付与が可能に
  • リモート採用: EU Incにより欧州全域での採用が容易になれば、日本のスタートアップが欧州人材をリモートで雇用する際のハードルも下がる

日本企業の欧州進出への影響

特に注目すべきは、日本のスタートアップがEU Incを活用して欧州市場に参入できる可能性だ。現状では、日本企業が欧州に進出するには進出先の国で現地法人を設立する必要があるが、EU Incが非EU企業の利用を許可する場合(詳細は今後の立法過程で決定)、1回の手続きでEU全域への足がかりを得られることになる。

日本のSaaS企業やAIスタートアップにとって、EUの4億5,000万人市場への参入コストが劇的に下がる可能性は見逃せない。

今後のタイムライン

EU Incの実現までには、以下のステップが想定される。

  1. 2026年Q2: 欧州委員会が正式な立法提案(Regulation案)を欧州議会・閣僚理事会に提出
  2. 2026年〜2027年: 欧州議会での審議・修正。加盟国間の交渉
  3. 2027年後半〜2028年: 規則の採択(楽観的シナリオ)
  4. 2028年〜2029年: 加盟国での施行準備期間(ITシステム構築、行政手続きの整備)
  5. 2029年〜2030年: EU Inc登記の受付開始

現実的には、加盟国間の交渉に時間がかかることが予想され、2029年の運用開始は楽観的なシナリオと言える。Societas Europaea(SE、欧州会社法人)が提案から施行まで約30年かかった前例を考えると、EU Incの実現には強い政治的意志が不可欠だ。

ただし、欧州委員会は今回の提案をRegulation(規則)として提出する方針であり、これはDirective(指令)と異なり各国での国内法化が不要で、採択後に直接適用される。この点はSEの前例よりも迅速な施行を期待させる要素だ。

まとめ

EU Incは、欧州のスタートアップエコシステムが長年抱えてきた「法的断片化」という構造的問題に、初めて本格的に取り組む政策提案だ。27カ国共通の法人格、統一ストックオプション制度、簡素化されたエクイティ・ルールは、米国のデラウェアC-Corpに匹敵する競争力を欧州にもたらす可能性がある。

今後の注目ポイントとアクションステップは以下の通りだ。

  1. 欧州スタートアップ関係者: 2026年Q2に予定される正式な立法提案の内容を確認し、パブリックコメントの機会があれば積極的に意見を提出する
  2. 日本のスタートアップ: EU Incが非EU企業にも開放されるかどうかを注視し、欧州市場参入の戦略を再検討する
  3. VC・投資家: EU Incが実現した場合の欧州スタートアップの成長加速シナリオを投資モデルに織り込む
  4. 政策立案者: EU Incをモデルケースとして、ASEAN・RCEP圏での類似フレームワークの可能性を検討する

欧州が「スタートアップの墓場」から脱却し、米国に対抗できるイノベーション拠点になれるかどうか——EU Incの行方がその答えを左右する。

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